昭和56年12月23日 月次祭



 今年も残りわずかな、お月次祭と致しましても、最後のお月次祭を終わらせて頂きましたが、愈々一年間を振り返って、有難いお年であったという締めくくりをいたしたいと思います。あというなら一週間余りですけれども、心をこめて今年一年の信心の、まぁ締めくくりをさせて頂いておかげを頂きたい。来年は今信徒会長がお話しておられましたように、合楽教会としても十五年の記念の式年祭。
 式年じゃない記念のお祭りで御座いますから。こりゃまぁ記念祭記念祭と言うて、みんなが頑張るというか、それに心を込めさせて頂けば記念祭は、必ず盛大に出来ると思うんです。けどその盛大に出来ただけではいけん。私は最近それを今年は、ここの隣接教会でも、記念の何十年教会開教何十年と言った様な記念祭があります。いくらもございました。それでもうどこでも、やっぱり本当に素晴らしい、そこの教会なりの記念祭が出来ております。だから記念祭がやっぱ出来たと。
 ほんなら来年再来年は教団にとっても、百年祭という大きなもう本当に大きな節になるわけですけれども。それはもう教団あげて百年祭、百年祭と言う様に申しておりますので、これはもう確かに素晴らしい百年祭が仕えられるに違いはございませんけれど。私は一生懸命に、今先生が言っておりましたように、折角お迎えするなら、折角させて頂くならば、真心をこめてとこう言ってますね。
 でないと私はそのそういう節から目が出るとか、節からこの枝葉が栄えるとかと言う事にならない。ただ百年祭なら、百年祭が終わったけれども、やっぱり終わってしもうたら、また元の通り。何十年の教会記念祭と言った様なのが、まぁ五年五年にこうあるわけですけれども。本当言えばあれだけ弾んで、記念祭をしたのですから。その記念祭を節に境にこう発展していかなければならないのが。
 発展していかないというのは、どういう訳か。ね。ただ一生懸命にお願いをする。一生懸命に奉仕をしたと、言うだけではやっぱいかん。どこまでも矢張り真心でさせてもろうて、ことがじょうじゅする。真心をもってするから、真心をもってさせて頂いたものも、徳を受ける、力を受けると言う事になるのです。まごころこめてすると言う事は、どう言う事だろうかと。
 今日学院から何か、学院便りのような、薄い雑誌が送ってまいりました。それで目が薄いからこの頃、読んで貰うんですけれども。佐田先生に一番まぁ巻頭ぜんというですか、扉のところに、学院長先生いわゆる偉い先生が、書いておられることを、まぁ読んで貰いました。大きく神に向かうということを、しかもやっぱりあの、学者ですから非常にこう、とらえ方が深いですね。
 なるほど、深い頂き方をしておられるなぁと。神にただ、向かうというだけでも、こう言う様な表現があるんだなぁと思うて、聞かせて頂いておりました。いうなら神に相対すると言う事。神に向かうと言う事。ね。又は心を神様に、いうならば、右を向いておっても左の方へ神様がござるならば、左の方へ向くと言う事だと言う様な事が、まぁ論理的に深い意味で書いてありました。私はそれを聞かせて頂いておりましたら、神に向かうということは、「しんじん」と頂いたんです。
 しんという字は、進むという字。信に進む教祖様のみ教えの中にも、信心とはわが心が神に向うのを信心というのじゃと。私はこういうご理解の一節から、まぁとられたお話であったと思うんですけれども。わが心が、神に向うのを信心というのじゃ。相対するとか、向きを変えたというだけではなくて、私が成程、立派に説明が出来ておるかに思うたけれども。私がそれを聞きながら頂いたのは、進信と頂いた。
 いわゆる進む信とこう頂いた。だから進信とはただ、神様の方へ心が向いたとか、向けたというだけではなくて、向いたら神様の方へ一歩一歩、近付いていかなければならない。和賀心が神に向かうのを進信という。神様の方へ向こうて一歩一歩近づいて行く事が信心だと、教祖は仰っておられると言う事で。たからそういう内容には、ちょっと違っておった感じがするんですけれども。私はそれを聞きながら、神様に頂いたのは進信と言う事でした。信ずるそれが進んでいくのである。ね。
 私は神様に喜んで頂く、例えば奉仕とか御用とかと、言った様な事がね。勿論真心というのは無条件だという風にも言われるんですけれども。神様へ自分の心が一歩づつでも近づいて行く精進をして行く事。その事が私はまぁ信心であり、神様が喜んで下さる事であり、真心ですると言う事は、信心を進めてなす事だと思うです。いまのままの心では駄目だと。親切とか真心と言うかのように見えても、いうならいうならそれが、なんというですかね、世の中には親切好きというのがありましてね。
 もう自分な一生懸命親切のつもりでやってるけれども。相手の方にあんまり喜ばれてない。いわゆる過ぎたるは及ばざるが如しと言った様な結果になりかねないのです。どこまでも信心でなからなければいけない。どこまでも自分の方が神様に向かって進んでいっておる、その心で事がなされるんです。しかもそれは無条件でです。今日今太宰府の、今近所におられるそうですが、鳥栖の上野さん所の親戚で中島さんと言う。
 まぁほん本当に今日はまぁ、合楽理念の実験実証をさせて頂いておる人達の、喜びのお届けがずうっと今日は、午後から続いておりました。あのくのいち会の連中のみなさん。それから行橋のみんなご信者さんがた。もう本当に日々を神様を、生き生き表していっておられる。もうそれを良い事悪い事につけてもそうである。今日中島さんのお届けなどを聞かせて貰いよりましたら、今度娘さんが沢山の中から一人選ばれて、大学の受験が合格したんです。
 大学に行くと言う事になりゃ、またままよにでもなるから、少、アルバイトでもさせて頂きたい。というお願がしてあった。で先日太宰府のあの、梅が枝餅を焼くお店が、ずうっとあるからね。そこが近所だそうですから、その梅が枝餅屋にでも、そのアルバイトに使うて貰いたいと思うて、まぁ行きましたそうです。そしたらどこももう戸が閉まっていて、あの閉まっておった。そこへ一軒だけもう閉めてあるけれども、少し開いておりましたから、入って行ってお願をさせて頂いた。
 そしたら正月は忙しいですよと。もうとにかく梅が枝餅は、正月は大変忙しいから、休んで貰っちゃ困るですがと言う事であった。もう私は休みません。けれども二日の日だけは休ませて下さいと。それはあの私は御本部参拝をしなければなりませんからと言うた。御本部参拝ちゃどこの御本部ですかち言うたら。あの私は金光様のご信心を致しますからと言うて、あれしたら。あらそうですかち。
 私もこの二日市の教会に、今お参りをして帰って来た所です。百年祭の旅費を納めて、今帰ってきた所ですと言う所であった。それでそんならその二日の御本部参拝の日だけは、良かどころじゃないですよ、ゆっくり参っていらっしゃいと言うて、話し合いが出来て帰った。お母さんも喜んだ。本当におかげちゃ有難いなぁと。そしてお手当はどげな風になったねと言うたら。
 お母さんもうお手当なんかじゃないでしょうがて。こういうその前後に、神様の間違いない働きを頂いておる中で、使うて頂くとじゃから、お手当なんかはどうでも良いでしょうがと。ほんにそうじゃったねと言うて、親子で言うたというお届けがございました。そうですよね、いわばもうお手当が高いとか、安いとかというのではない。もう無条件と言うのは、そういう事じゃないでしょうか。
 そんなら無条件で奉仕が出来る。中々生身を持っとりますから、条件があるのですけれども、そういう日々実験実証させて頂いて、そうした神ながらのおかげの中にあると、自ずと、条件と言うのは無くなってくるですね。だからそういう意味でもです。いうならいかに、合楽理念の実験実証させて頂く、日々でなければいけないかという事が分かります。ね。もう私は今朝からも神様にお知らせを頂いて、御神前に出た途端に頂くのが、女の方が、もう立派な長刀(なぎなた)を、こうやって持ってるんです。
 所がその長刀が重たいものだから、使いこなしきらんでおるというのであった。ね。まぁその立派な長刀と言う、これはいうならば、合楽理念という事にしても良いんじゃないでしょうか。もう本当に最高の理念を、いうなら人間の助かりの理念である所の、合楽理念をいうならば、日々稽古させて頂いておるのですから。これを頂きこなさなければ、値打ちはないと。どんなに素晴らしいこれが長刀であっても。
 それをそれこそ自由自在に使いこなせれる、いうならば稽古をしなければ、折角の合楽理念が死んでしまうじゃないかと。ね。今朝から私は皆さんに聞いて頂いたんですけれども、最近ではあちらこちらで、今日もある私は若先生から聞いたんですけれども。拝むという事は、無我においてと。これは私が大阪公演の時に、泉尾の先生の事で、泉尾の先生という方が、どんなに偉い方か。どうしてあんなごヒレイを頂かれる方か。まぁ成程一生懸命、血を吐くような思いで御祈念をなさるそうですが。
 拝まれるけれどもそこには私がない。おは於いての於ですね。がは我という字。むは無いという字。ね。無我拝むということは、無条件である。お願いおかげを頂かならんから、お願をせんならんから拝むのではない。信心が段々分かれば分かるだけ、今日こうやってお生かしのおかげを頂いておるという事だけでも、ね。お礼を申し上げなければおられないという。もう当然の事として拝ましてもらう。気分の良いけん拝む。気分の悪いけんで拝まんと言った様なもんじゃなく。
 根本的な所が分かってきたら、そのいわゆる於我無と言う事になってくるでしょうね。だから今度はまた神様も、無条件にどんどんいうならば、大きなおかげを授けて下さることになっておるのが、まぁ泉尾の教会のあのごヒレイじゃないかと思うんです。その事をだからそう言う事を、よその先生方が知ってるはずはないのですけれども。ある先生がね。拝むと言う事は、私がその説明したような事を、まぁいうならば自分が考え出したようにして書いておる本を読んだという話をしてました。
 この頃あっちこっちで合楽の教えの偽物が出てきたと言う事です。いや本当ですばい。昨日ここの若先生が言いよりましたが、今度御本部から出ておるご本を読みよったげなが、ね。人間はそれこそもって生まれてきた時に、生神の性を備えてきておる。それは例えば柿の種一つでも割ってみなさい、中にはもうすでにチャットこう芽があるだろうがと。ように、人間も割ってみると中にはチャット生神の芽があるんだと。
 だからその柿の種も、ただここに置いておった、畳の上に置いておっただけでは、生きらんのだけれども、ね。これが(ごとしん?)として、お日さまの陽光のおかげを頂いて、水分を頂いて、色々な条件が足ろうて、こう芽が出るように、ね。人間は生まれた時と同時に、生神の芽を持っておるから、それをいうならば育てていくという。そこには土の信心が、まぁ最高だという風に、合楽では説くわけですね。
 その事が書いてあると言う。けれども、やっぱ柿の種ちいうと、合楽の真似したごたるけん、大根の種ち書いてあったげな。大根の種もやっぱ芽はあろうばってん、割ったっちゃ分からんもんあれは。だから私はそれを聞きながら思ったんですけれどもね。本当に合楽での教えが、もうあちらこちらで使われる事は、こんな有難い事はない。けどもこれは一つの何と言うでしょうかね。私どもはどんな素晴らしい教え。これは高梁雅雄先生は、かく教えておられる。
 甘木の初代は、こういうておられるという風に言うんですけれども。それをねこう自分のもののようにして言うと言う事は、いうならば偽物である。ちょこっとばっかり替えてから、本当の物のようにこうしておる。偽物が出てきたと言う事は、愈々こら合楽の信心が本当なものだという風に思いました。ね。だから皆さんこうやって日々稽古なさって、合楽理念の勉強なさっておられる。もう合楽理念によるほかはない。商売は合楽理念をもってするほかはない。
 百姓は合楽理念をもってする外はないと言う様に、合楽理念が絶対のものだ。いわゆる本当の物だ、素晴らしいものだと言う体験を、日々して行かなかったら、値打ちは無いでしょうが。初めから中々ぎこちなく出来ませんけれども、ね。それこそもう本当に神様は生き生きと。これも中島さんの今日、お届けでハガキを持ってきておられましたが。ね。先月お参りをしてくる途中で、おかげの泉をこうやって読みよった。
 所が隣におられるおじさんが、もう中を覗き込むようにして、何という本ですねと言われるから。あの是は合楽のお教会のご本ですけども。何なら差し上げましょうかと言うた。そんならと言うて差し上げた。それでえらいそのまぁ話を聞いて下さったから。これからそのおかげの泉を送ってあげようと思いながら、所を聞く事を忘れた。そしたらその方が立たれたら、立たれた後に小さい伝票のようなものがあった。領収書である。その方あての。そしてどこどこ所番地が書いてある。
 まぁ本当に神様の働きちゃ恐れ入ったというのである。そん時もその伝票もって見えとりました。この方でした。だからおかげの泉をこれから送って差し上げたいからというて、まぁ言うておられましたがね。今日その方からハガキが来ておるハガキを今朝から持って来た。その中に書いてあります。本当に素晴らしいご本を頂いて有難かった。私もまずは心の中に私の家庭の中に、和賀心時代を作らなければならんと思いますと書いてあるんです。ね。先ずは自分の心の中に。
 私の家庭の中に和賀心時代を作っていかなければならない。そういう一つの発心が生まれてくる。そしてそっから合楽理念の実験実証と言う事になってくるわけです。ね。どんなに素晴らしい、正宗の名刀だと言うても、それを使いそれをこなしきらなければ、ただ毎日毎日もう口説かせようごとお願いをするとか、お参りをするとか一生懸命、まぁ十五年の記念祭記念祭と言うて願う。願うからおかげになる。
 おかげになるけれどもほんなら、記念祭と言う大きなおかげの花が咲いても、それはあだ花に終わってしまう様な事では、みなさんいけんでしょうが。それこそおかげはわが家で受けようと言う願う。わが家でちぎらせて頂けるようなおかげを頂くためにもね。いわゆる、真心のそれが要るのであり、信心が要るのであり、合楽理念の実験実証させて貰う手立てを愈々、考えなければいけない。それは真心だ。
 それは無条件だと。真心とはいうならば、ただ神様を拝むと言うだけではなくて、自分と言うものを、いうならば無我の境地において、無条件な信心のいうならご祈念が出来るような信心にも進んでいきたい。信心いうならば神に向かうと言う事は、教祖の神様は信心とは、わが心が神に向うて行くのを信心と言うのじゃと仰る。今日学院のまぁ学院長先生が言っておられるそれは素晴らしい神に向かうという、色んな説明二通りあるというて、二通りの説明をなさっておられるけれどもそれだけではない。
 それも嘘ではない。けれども神に向かうというのは、心が神に向かって進んでいくのだ。進信なのだと。進む信だただ合楽にお参りしておりますと言うだけではなくて、合楽に参りだしたら、合楽理念が身について行って、段々段々いうならばその長刀が自由自在に使いこなせるように進んでいくのだ。ね。信心を進めての十五年祭であり、または百年祭であり又は先ほどから言われております、ね。マルショウの感謝の夕べである。また皆さんが真心で集める、いうならあの景品ですか。
 なんかもただ自分の信心を、少しでも進めて、ね。今日も私先ほどから一時間ばっかり座っておる間に、もう本当にあのそういうお届けが二つ見えたんです。もう私は本当にいらいらもやもやが、まぁいうなら女性の方だからこうあるですよね。やっぱヒステリックな心が起ってくるわけです。ね。それで自分でもうやっぱ芯から苦になっておられる者でした。お二人ながら私先ほどお届けさせて頂きました。で二人の方には私申しました。あのそげん時にはね、もうそれこそもうカーッとなるそうです。
 私はカーッとなる性分だからと言われましたが。そんカーッとなった時に今こそ巡りのお取り払いを頂いておりますと言うてお礼ば言うと沈まん。いまこそ巡りのお取り払い、いうなら女の業のようなものが外れていきよるんだと。それを出しっぱなしにするから、何時まで経っても直らん。その事出る事に対して、腹だたしいその事に対してでも、お礼を言うような心にならせて貰え。
 と言うて申しました事ですけれどもね。例えばそのようなそういう日常の中にあっても、こう言う時には、合楽理念を持ってすればと言う生き方を身につけさせて貰い。今日私が行橋のご信者さんがた、又はくのいち会のみなさんの、一人一人のお届けを聞かせて頂いてもう信心も、こげんなると楽しかのと言うて、まぁお取次させて頂いた事でございますけれども.もう確かに合楽理念を、本気で実験させて頂こうとすると、必ず実証が生まれるです。それが楽しいです。
 それが愉快です。もうそこには条件は無くなってくるです。高いの安いのと言うちゃおれんです。こういうおかげの中にあるとじゃから、お母さんそんなこつは、どうでん良かじゃんのと言うごつなってくるです。ね。そういう私は、日常生活が送れるようなおかげを頂きたい。わが心が神に向かう。合楽にお参りをしてくる。成程それだけでも、神に向こうたのですけれども。教祖の神様はわが心が神に向こうて行くのが進信と言うのじゃ。心で参った向こうただけじゃない。
 神様へ向かって一歩一歩近づいて行く、進んでいくと言う事が、神に向かうと言う事だと言う事を、今日私は、神に向かうという、まぁ小さい論説ですけれども、それを聞かせて頂いて成程そうだと思います。そして先程秋永先生が言っておりましたように、折角ならば真心ですとこう言う。ほんなら真心ですとは、どう言う事かと。信心を進めてそれを行う。又は無条件の奉仕をさせてもらう。
 合楽理念にもとずく無条件の奉仕。そこに信心の実験実証が出来る。その実証そのものが信心が進んでいく、いうならば手応えのようなものになってくると思うんです。信心が楽しいもの愉快なものになっていかにゃならん。今年も愈々その僅かのそれをです。本気で、日々を実験実証に明け暮れたい。そういう願いを建てなきゃいけません。どうぞ今年も、まぁいうなら楽な年越しが出来ますようにと言うことも、願わにゃならんけれども、それよりも、日々を合楽理念の実験実証に明け暮れたい。
 こういうときには、合楽理念をもってすればと言う生き方になれば、ね。私は良いいわば一年間を有難いで、締めくくれる様なおかげが受けられると思う。ね。そういう実証をして頂きたい。そしていうならば元旦祭であり、新春のパーティであり、又は年末のいわゆる、感謝の夕べであるという風に思います。それを真心で折角ならばする、と言う事は信心を進めて、その事に当たると言う事だと言う事を、今日は聞いて頂いた。
   どうぞ。
 今日はですね、北野の秋山さんの長男の、光行さんというのが丁度もう、四十四五日も前の話ですけれども。トラックと正面衝突して、まぁいうなら大怪我をして、入院しとりました。それでここが骨折ここが折れとるとですから、ご飯も何も流動食で何十日間も過ごしたわけですが、今日退院のおかげを頂いて、一早くまぁうちにも帰らん前に、お礼参拝してまいりましたとこう言うんです。
 私はこの頃目が薄いもんですから、あのまぁメガネを、あ光行さんじゃったなぁと。それがもう人相が変わるほど、代わってるのに驚きました。人間が四十五日間もこれはもう、自分がしようと思うて出来る仕事じゃないですね。ベットの中にいてそれこそ流動食だけしか入らん。それを四十五日間もしかも、その間金光様金光様を念じんわけにはいかん訳なんです。そしたらね人相がかわりますばい。もう私は今までかって見たことのないような、素晴らしい人相になっていたからね。
 まぁ本当に良か修業させて貰うたなぁと言うて、まぁお届けさせて頂きましたが。その弟の秋山先生達がおりますから言った。それから研修の時にあの皆さんが来た時には、僕はちょっとでとったから、会いませんでした。それで嫁の美恵さんが会ってから、話しましたが、私は驚きました。兄さんが変わっておられて、兄弟でこんな信心話が出来ると言う事はもうとても、私がそれでとにかく光行君が、人相が変わるほど心の内容が変わって、いうならあくが抜けたんですね。
 四十五日間一生懸命修業するから。ね。それでもう本当に、私は本当に有難いと思うたと言うてやったら、美恵さんがそう言うんですね。もう私もそう思いましたて。もう兄さんと一緒に、誠治君がおりませんでしたけれども、兄さんと信心話がこんなに出来たことは、初めてでしたと。そして兄さんが言われました。親先生が代わられたち言うた。(笑い)みんなで大笑いでした。そらそうじゃろ私もちった変わって行きよるばってん、みんなが分からんだけのこと。ね。
 私はそれを聞きながらね。本当にまた感動しました。これは自分が変わっておりません。親先生がもっと素晴らしい親先生になるですよ必ず。だから信心とは結局ほんなら、ご結界の先生を、金光大神として拝まにゃならんけれども。拝もうと思うけれども拝まれんというのは、自分自身が変わらない、自分自身のあくが、我情が我欲がいっぱいで、こうしとるから、親先生が拝めんのです。
 私はお祓いばせんならんごたったけれども、はぁ親先生が変わったち言う。と美恵さんに言うたということを聞いてですね。確かに変わって見えたんですね。私は左程は変わっとらんでしょうけれども。自分自身がそれこそ、人相が変わるほどに変わっておるということです。だからもうただ、おかげを頂いて退院したというだけではなくてから。あの大怪我がを境に、こう言う有難い事になってきたと言う事にならにゃいけないねと言うて、申しました事でございます。
   どうぞ。